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Hizuru Pilgrimによる徒然なるブログ。
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昨今の音楽の主な消費者層は10代~20代の若年層と言われていますが、僕も一音楽クリエイターとして、若年層の今の“気分”は非常に気になる所。今回はその“気分”を知る手掛かりとして齊藤環著『承認をめぐる病』を取り上げてみます。この著書自体は、「承認」に限定されず、うつ病から家庭内暴力、解離からキャラと、多種多様な話題を取り扱っていますが、ここでは特に主題である「承認」に言及する部分を重点的に書き出してみました。

若者のサブカルチャーにおいては、コンテンツとコミュニケーションが相互浸透的な関係にあって明確に区分出来ない場合がしばしばある。コンテンツはコミュニケーションの「ネタ」として消費される一方で、コミュニケーションからさまざまなコンテンツがもたらされる例もある。

例えば、「初音ミク」の例。“彼女”は「ボーカロイド」と呼ばれる音楽ソフトである。もっともポピュラーなその実用例は、初音ミクと他の音楽ソフトを組み合わせて楽曲を作り、それを動画投稿サイトにアップロードする、というものである。よい曲であればさまざまな反響が寄せられ、曲に合わせたPVが作成され、新たなアレンジの曲が作られ…と、複数の匿名の作り手が共同で作品を育てていく過程がきわめて興味深い。いわゆるN次創作が自明の前提となっているのだ。ここには「コンテンツ=コミュニケーション」の回路があることだけは疑い得ない。

しかし、「初音ミク」の例はいささかマイナーで特異すぎると言われるかもかもしれない。ならば「AKB48」ならどうだろうか。例えば、楽曲のCDをいかに売るか。AKB48関連の商品では、握手会や投票権などのノベルティを付けることで、ファンがCDなどの商品を複数買いするようにしむける手法がよく知られている。いわば虚構の消費を徹底すればするほど、現実(のアイドル)に介入できる、という仕組みだ。ここにも「コンテンツ=コミュニケーション」の回路があるのだ。

しかし、“AKB商法”の巧妙さは、実はそればかりではない。そこには現在の思春期をとりまくさまざまな問題が、構造的にはめ込まれ、応用すらされているのである。例えば、AKB人気の最大の要因は、それがアイドルの「キャラ消費」システムであるという点だ。一般にアイドル人気は顔の美醜をはじめとする身体的スペックや歌唱力や演技力を含む、各種のスキルなどに依拠するところが大きい、と誤解されがちだ。しかし、実際の人気の維持において最も重要なのは、アイドルの「キャラ」なのである。

「キャラ」とは「キャラクター」の省略形である。日常的には「キャラが立つ」「キャラがかぶる」などのように使用される。キャラクターといっても、必ずしも「性格」を意味しない。「キャラ」とは本質とは無関係な「役割」であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。それゆえ所属集団や人間関係が変わると、キャラまで変わってしまうことも珍しくない。

キャラの分化を強力に促進するもう一つの要因が「序列化」である。例えば教室における序列化を考える際、理解しておくべき背景が二つある。「スクールカースト」と「コミュニケーション偏重主義」だ。「スクールカースト」とは、いわば「教室内身分制」である。新学期の教室内ではしばしば複数のグループ(同質集団)が発生する。グループ間には、はっきりとした上下関係があり、極端な場合、個々の生徒たちは、グループを超えて交流することはまずないとされる。「キャラ化」はこうした同質集団内でなされることが多い。それでは、何がスクールカーストの序列を決定づけているのか。「コミュ力」、すなわち「コミュニケーション・スキル」である。

実はAKB48もまた、こうした「序列化」を意図的にシステムに取り込んでいる。それが年に一度開催される「AKB総選挙」だ。こうした序列化の手続きによって、キャラを決定づけるための要因はいっそう複雑化し、メンバーのキャラ分化もいっそう細やかなものへと進化する。スクールカーストが、キャラ分化を促進するのと同様のメカニズムだ。AKBは集団力動にサブグループや序列化といった構造的力動を加味することで、各メンバーのキャラを固定化し可視化するための巧妙なシステムを作り上げた。ファンを動かすのは、単に彼女たちのキャラを消費したいという欲望ばかりではない。投票による序列化を介して、直接「推しメン」のキャラ形成に関わりうることが、彼らをいっそう強く動機づけるのだ。これはある意味、究極の「キャラ消費」システムであり、現時点においてはアイドル消費の最終進化形なのである。

しかし、そもそも「キャラ」とは何のために必要とされたのだろうか。おそらくキャラ文化の最大のメリットは「コミュニケーションの円滑化」である。自分のキャラと相手のキャラが把握されれば、コミュニケーションのモードもおのずから定まる。キャラというコードが便利なのは、もともとの性格が複雑だろうと単純だろうと、一様にキャラという枠組みに引き寄せてしまう力があるからだ。

スクールカーストの成立要件からも理解されるとおり、いまや子どもたちの対人評価軸は、勉強でもスポーツでもなく「コミュ力」に一元化しつつある。私が問題と考えるのは、ここでいう「コミュ力」が必ずしも適切な自己主張とか、議論・説得の技術などを意味しない事だ。大切なのは次の二つ、「場の空気を読む能力」と「笑いを取る能力」なのである。「コミュ力」がこうした文脈依存的な能力であるがゆえに、普遍的なコミュニケーション・スキルとしての価値に届かない場合がしばしばある。しかし最大の問題は、「コミュ力」と「キャラ」が相互依存的な関係におかれていることだろう。キャラはコミュニケーションをスムーズにする反面、自分のキャラを逸脱した行動を常に抑圧するという副作用を併せもつ。つまり、忠実にキャラを演じ続けることで、人格的な成長や成熟が抑え込まれてしまう可能性もあるのだ。

ここまでの検討からわかること、それは、多くの思春期の子供たちにとって「キャラとして承認されること」が最も重要である、ということだ。キャラを与えられないこと、それは教室空間内に「居場所」がないことを意味するからだ。

もちろん、承認欲求そのものは人間にとって普遍的なものだ。最近の傾向として、特異に思われるのは、マズローの欲求段階説(マズローは、人間の基本的欲求を低次から高次まで五段階に分類した。すなわち①生理的欲求②安全の欲求③所属と愛の欲求(関係欲求)④承認の欲求⑤自己実現の欲求である。人間の欲求は低次から高次へと順番に満たされることを求める、とされている。)で言えば、より高次な欲求であるはずの「承認欲求」が全面化し、極端にいえば「衣食住よりも承認」という逆転が見られつつある。しかも、その承認が「キャラとしての承認」であることに問題がある。「キャラとしての承認」を求めること。それは承認の根拠を全面的に他社とのコミュニケーションに依存することだ。

かつて、承認は、ある程度は客観的な評価軸の上で成立していた。能力や才能、成績や経済力、親の地位や家柄などだ。もし、客観的な「承認の基準」がしっかりと確立されていれば、孤独を恐れる必要はない。その基準のもとで、自らを承認することが可能となるからだ。しかし、現代の「承認」については、そうした客観的基準の価値ははるかに後退し、いわば間主観的な「コミュ力」に一元化されつつある。「キャラ」はそうした「承認のしるし」となる。承認を他者にゆだねることは、極端な流動性に身を任せることだ。ある教室では強者たり得ても、次の教室ではどうなるかわからない。所属する集団が変わるたびに承認の基準はリセットされることになる。

若い世代にとっての就労にもやはり同様の傾向が見られる。彼らにとっての就労は、もはや「義務」ではない。彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に承認欲求のためなのだ。就労動機の変化は別の言い方でも表現できる。それは「生存の不安」から「実在の不安」へ、という変化である。かつての執着気質の背景にあったものが「生き延びること」への執着と不安であったのに対し、現在の若い世代にとっては、それがさして重要でなくなりつつあるのではないか。かわって前面に出てきたものが「実在の不安」、すなわち「自分は何ものか」「自分の人生に意味があるのか」といった不安ではないか。現代においては「実在の不安」こそが重要であり、軽症うつ病などの原因になりやすい。さらに言えば、この「実在の不安」は先に述べた「承認欲求」と表裏一体の関係のもとで若者の気分を構成しているのである。


70年代までは、実存の不安を解消してくれたのは宗教や思想だった。これが90年代に入ると、「心理学」にとってかわった。2000年代に入って心理学ブームが退潮するとともに前景化してきたのが「コミュニケーション偏重主義」である。いまやそれは単なる「若者の気分」を超えて、一種の職業倫理のようなものににすらなりつつある。その結果としてコミュニカティブであることは無条件に善とみなされ、コミュニケーション・スキルの有無は、就活などをはじめとして、しばしば死活問題に直結する。

最近注目されている若手の社会学者、古市憲寿は、著書『絶望の国の幸福な若者たち』で興味深いデータを紹介している。複数の世論調査によれば、現代の若者たちの多くは、今の生活に満足しているというのだ。「若者の生活満足度や幸福度はこの40年間でほぼ最高の数値を示している。一方で、生活に不安を感じている若者の数も同じくらい高い。そして社会に対する満足度や将来に対する希望を持つ若者の割合は低い」(前掲書)

この、いささか混乱した印象をもたらす結果について、古市は社会学者・大澤真幸の論に依拠しつつ説明を試みる。大澤によれば、人が不幸や不満足を訴えるのは、「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろう」と考えることができるときだ。逆にいえば、もはや自分がこれ以上は幸せになると思えないとき、人は「今の生活が幸福だ」と答える。若者はもはや将来に希望が描けないからこそ、「今の生活が満足だ」と回答するのではないかと。

「将来、より幸せになるとは思えない」ことは、一見、絶望に似てみえる。しかし、筆者の考えでは、この言葉は「将来、さらに不安になるとは思えない」という感覚と表裏一体なのだ。彼らは絶望しているのではない。ただ変化というものが信じられないのである。もし「今よりも状況は、よくも悪くもならない」と信じられたら、あなたはどう感じるだろうか。おそらく現代の日本社会にあっては、「変化」の可能性そのものを断念することは「そこそこの幸福」を意味するのではないか。古市と筆者との見解の違いはこの点である。未来に絶望しているからこそ「今が幸せ」なのだと彼は指摘するが、筆者はそれを「絶望」ではなく、「あらゆる変化を断念すること」と考えたい。こころから「何も変わらない」と思えたら、多くの人はその感覚を「満足」や「幸福」と“翻訳”してしまうのではないだろうか。

ここで問題となるのは、まさに「コミュニケーション偏重主義」の風潮こそが「変化の断念」をもたらしているのではないかと考えられるからだ。「キャラ」によるコミュニケーションの円滑化とは、相手のリアクションを予想しやすくするという意味もあるが、さらに重要なのは、しばしばコミュニケーションが「キャラの相互確認」に終始することがあるからだ。「お前こういうキャラだろ」というメッセージを再帰的に確認しあうこと。それは情報量のきわめて乏しい「毛づくろい」にも似ているが、親密さを育み承認を交換する機会にとっては最も重要なコミュニケーションでもある。

この種のコミュニケーションの快適さになれてしまった若者たちは、自らに与えられた「キャラ」の同一性を大切にする。成長や成熟を含むあらゆる「変化」は「キャラ」を破壊し仲間との関係にも支障をきたしかねないため忌避されるようになる。コミュニケーション偏重主義が変化の断念をもたらすというのは、おおむねこういった理由による。

現代社会においては多くの個人が成熟によるアイデンティティの獲得ではなく、まずそれぞれのキャラを獲得させられる傾向が前景化しつつある。すでに多くのフィクションが成熟や成長を描くことを放棄しつつあることが徴候的だが、現実においてもキャラ化が成熟困難と結びつきやすい傾向があるのは事実であろう。キャラが同一性のみに奉仕する記号であり、キャラの相互的・再帰的確認がコミュニケーションの主たるモードであるとすれば、それが成熟という「変化」に対して阻害的に働くであろうことは容易に想像できる。

本来、人格の成長、成熟という考え方そのものが、身体的な成熟のアナロジーでしかない。人格の成熟が想像的な位相において生ずるものであるとするなら、その機能がキャラ化とともに後退せざるを得ないのはある種の必然である。身体的成熟のアナロジーとしての人格的成熟概念に代わる、あらたな精神の自由と安定のスタイルが考えられる必要があるだろう。

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プロフィール
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Hizuru Pilgrim
性別:
男性
自己紹介:
09年インディーズレーベル"What a Wonderful World"を立ち上げ、同名のコンセプトアルバムをリリース。トラックメイキングの傍らドラムンベースDJも少々。

現在はmirgliP名義でのボカロ曲投稿を中心に活動中!これまでの投稿動画はコチラ

twitter : @mirgliPilgrim
Mail : pilgrim_breaks@hotmail.co.jp


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